2017年1月
神は光を創造された
 七里教会牧師 小林則義

 息子が小学生や中学生のときでした。地域の青少年育成会の関係で、私と息子はいつも正月の元旦は、初日の出マラソンに参加しました。元旦の朝4時頃、まだ真っ暗な中起床し、出発地点の公園に集まりました。そこから片道5キロほど離れた丘の上の公園まで一気に駆け上がったのです。走り終って汗も引く頃、真っ暗な闇も白みがかり、やがて初日の出の太陽が顔を覗かせます。太陽の光が差し込んだその瞬間、待っていたランナーたちは「ウォー」と感嘆の声を上げるのです。まさに、この世に光が差し込んだような瞬間です。
創世記1章3節には「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」とあります。創造物語における光の創造は、まさにこのような光景を私たちに想像させます。
光とはどういうものでしょうか。光は闇を消し去ります。光は明るいものです。光がなければ地上の生活は闇です。私たちの地上の生活は光がなければ成り立ちません。
最近いろいろな事件が頻繁に起こっています。あまりに多過ぎて以前の事件を忘れてしまうほどです。テレビや雑誌は犯人の心の闇に迫って、それがどのようなものであったか報じようとしています。しかしそれはなかなか分かりません。残忍なことをする人にはそれ相応の問題があったのだと思います。またこの世界はある意味では闇のようなものかもしれません。
しかし光を受ければ受けるほど闇は小さくなります。光を受ければ受けるほど憎しみやねたみは小さくなります。光を受ければ受けるほど愛は大きくなります。

 また、光は人の罪を示します。社会の罪を示します。光は隠れているものを明らかにします。エペソ書5章13節に「すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。」とあります。
 ホコリだらけの部屋にいます。光がないとそのホコリに気が付きません。光が窓から差し込むとそのホコリがよく分かります。それと同じように心が聖書の光に照らされると自分の罪がよく分かります。社会の罪も見えてきます。そして真実な悔い改めに導かれていきます。社会の不正義にも声を上げるよう導かれていきます。

 そして、光は行く道を照らします。創世記が書かれたであろう当時、南ユダ王国は新バビロニアに滅ぼされ、信仰の象徴であったエルサレム神殿は崩壊していました。イスラエルの人々、とくに政治・宗教指導者、知識人たちは、バビロン捕囚という苦境にありました。彼らはまさに闇の中にいたのです。
天地万物を創造された神は、そのはじめに光を創造されました。この神に対する信仰が、闇の中にいる彼らに希望を与え、行く道を示したのです。
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ書9章1節)
 主イエス・キリストは私たちの世界に光として来られました。光である主は私たちの人生を導いてくださる方です。闇の中で挫折してしまった時、右か左か迷う時、自分がどこへ行くのかわからない時、聖書のみことばを通して語りかけてくださいます。信じて従う者を、神はそのご計画の中で一歩一歩導いてくださるのです。

(この文章は「トラクト」からの転載です)


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