「私も、失うときには失うのだ」
(創世記43章14節) 
 小林知子

 公立中学の教師を三十年以上務めた。毎年ではないが、子供の成績のことで抗議にくる親がいた。特に中学三年の子供の親の場合、抗議にくると並大抵のことでは引き下がらない。どんなに細かく資料を提示して説明したところで、「うちの子が(五段階評価の)4なんておかしい。絶対5のはずだ。」と思い込んでいるので、聞く耳を持たないのだ。
 親によっては、「うちの子は何としてもA高校に推薦で入れたい」という願望を抱く人がいる。だから、子供の成績がその推薦基準に達していなかったりすると、教師の成績のつけ方に問題があるかのような言い方をする。

 そのような親を、若いころは「愚かな人たちだ」と思っていた。学校の成績などで人生が決まるわけではないのに。A高校に行かなくたって、死ぬわけではないのに・・と。けれど、自分も(決して人様に自慢できるわけでもない)二人の子の親となり、そのような親の気持ちも少しわかるようになった。
 親というのは、子供のことになるとなかなか「手離せない」のだ。わが子に対して「こうなってほしい」「こうであってほしい」という思いを、握りしめずにはいられないのだ。

 創世記に出てくるヤコブも、信仰者としては立派な歩みをしたけれど、父親としてはちょっとどうか、という人物である。息子たちが何人もいる中で、ヨセフやベニヤミンといったお気に入りの息子を偏愛し、兄弟間のいさかいを招いている。自分の住む地に飢饉が訪れ、エジプトに食糧をもらいに行かなくてはならなくなった時も、初めは末子のベニヤミンを兄たちと一緒に行かせまいとした。けれど、「末の弟を連れてこないと、この地に入ることはできない」とエジプトの支配者に言われています、と息子の一人であるユダに説得され、ようやく「私も失うときには失うのだ」と、全能の神にすべてを任せる決意をする。
 しかし、そのように愛するベニヤミンを手離した結果、神様はヤコブにすべてをお返しくださる。食糧も、息子たちも。いなくなっていた最愛の息子ヨセフとも再会することができたのだ。

 私たちも、「失うときには失う」「手離すときには手離す」覚悟が必要である。わが子のことでも、それ以外のことに対しても。それができたとき神様は、自分が握りしめていた以上によいものを備えてくださるに違いないのである。公立中学の教師を三十年以上務めた。毎年ではないが、子供の成績のことで抗議にくる親がいた。特に中学三年の子供の親の場合、抗議にくると並大抵のことでは引き下がらない。どんなに細かく資料を提示して説明したところで、「うちの子が(五段階評価の)4なんておかしい。絶対5のはずだ。」と思い込んでいるので、聞く耳を持たないのだ。
 親によっては、「うちの子は何としてもA高校に推薦で入れたい」という願望を抱く人がいる。だから、子供の成績がその推薦基準に達していなかったりすると、教師の成績のつけ方に問題があるかのような言い方をする。

 そのような親を、若いころは「愚かな人たちだ」と思っていた。学校の成績などで人生が決まるわけではないのに。A高校に行かなくたって、死ぬわけではないのに・・と。けれど、自分も(決して人様に自慢できるわけでもない)二人の子の親となり、そのような親の気持ちも少しわかるようになった。
 親というのは、子供のことになるとなかなか「手離せない」のだ。わが子に対して「こうなってほしい」「こうであってほしい」という思いを、握りしめずにはいられないのだ。

 創世記に出てくるヤコブも、信仰者としては立派な歩みをしたけれど、父親としてはちょっとどうか、という人物である。息子たちが何人もいる中で、ヨセフやベニヤミンといったお気に入りの息子を偏愛し、兄弟間のいさかいを招いている。自分の住む地に飢饉が訪れ、エジプトに食糧をもらいに行かなくてはならなくなった時も、初めは末子のベニヤミンを兄たちと一緒に行かせまいとした。けれど、「末の弟を連れてこないと、この地に入ることはできない」とエジプトの支配者に言われています、と息子の一人であるユダに説得され、ようやく「私も失うときには失うのだ」と、全能の神にすべてを任せる決意をする。
 しかし、そのように愛するベニヤミンを手離した結果、神様はヤコブにすべてをお返しくださる。食糧も、息子たちも。いなくなっていた最愛の息子ヨセフとも再会することができたのだ。

 私たちも、「失うときには失う」「手離すときには手離す」覚悟が必要である。わが子のことでも、それ以外のことに対しても。それができたとき神様は、自分が握りしめていた以上によいものを備えてくださるに違いないのである。
2016年12月


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