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「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編1編3節)

「幸いな人生」とは神と共に歩むことです。
詩編1編3節は、私たちのいのちは神と共に歩むことにあると教えています。
「流れのほとりに植えられ」豊かな実りを約束されている木のように、神と共に歩む者は「すべて、繁栄をもたらす」と教えています。
何故でしょう?何故なら「その人は流れのほとりに植えられた木」すなわち、その人の歩みは常に神の恵みの中にあるからです。どうぞ七里教会にお出でください。

来会時のお願い

①来会者は必ずマスクを着用してください。受付で手指のアルコール消毒をしてください。また席を空けてお座りください。窓は開けて換気を行います。
②体調のすぐれない方、熱、咳などの症状のある方は出席を控えてください。ぜんそく等の方は申し出てください。賛美歌をうたう時にもマスクの着用をお願いします。


今週の礼拝
2023年1月29日(日)午前10:30~11:30
 聖 書  コリントの信徒への手紙 一 12章12~26節
 説 教  一つの体
 説教者   佐々木佐余子 牧師
 讃美歌   24番、224番(1,3)、289番(1,3)、29番


 コリントの教会は今まで学んできましたが、様々な問題がおきている教会でした。けれど、パウロはそのような教会を神の教会と呼んでいるのです。この手紙の初めのところを読む と、1章2節「コリントにある神の教会へ」と宛名書きされています。他の手紙ではそう書かれてはいないのです。たとえば、「ローマの信徒への手紙」はどうでしょう。最初を読むと「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」となっています。他の手紙にも「神の教会へ」という宛先はないのです。ここにパウロの愛が表れていると感じます。この世的に何の功績もなく、力ある人たちがいたわけでもなし、奴隷も多数いたでしょ う。そのような弱い教会が神の教会とされているのです。

  ある牧師の証の中で伺った話ですが、日本海沿いにある港町で、ある牧師が開拓伝道を始めました。その地域は仏教を信じる人たちが大変多いところで、あまり伝道上の実りはなかったのです。その牧師さんは高齢になり、もう今年で伝道所を閉めよう考えていました。最後の礼拝をしているところへ、ある青年が道を求めて訪ねて来たのでした。その青年は様々な問題を抱えて、自殺しようと考えていたのでした。けれど、最後に1回だけ教会の礼拝に 出て、そこで何も見いだせなかったなら死んでしまおうと考えていたのです。そのようなことを何も知らないで、牧師さんは最後の礼拝だと思って御言葉を語りました。そこに聖霊が働いたのです。その青年は教会に関心を持ち始め、ずっとその伝道所に通って求道し、遂に洗礼を受けたのでした。牧師さんは喜び閉めないで良かった、と思いつつその後も御言葉を語り続けたのです。その青年はやがて献身し牧師になりました。その後、自分を導いたその高齢の牧師を招き伝道礼拝をしたということです。その高齢の牧師さんはどんなに神の御業を喜んだでしょう。これは本当の話なのです。人の目から見たら小さな弱い教会が聖霊の働きで大きな業をあらわした例です。パウロは小さくかつ弱い教会こそ神が働いてくださ るので神の教会と呼んだのです。パウロは言っています。「力は弱さの中でこそ十分に発揮 される…… むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです」(コリ二 12:9~10) パウロの強い信仰です。普通なら弱い時は落胆してがっかりして気落ちしてしまうのに、パウロはかえって元気になっている。コリント書のみならず、使徒の手紙は読む人に励ましを与えます。皆イエスさ まの福音に人生を変えられ活性化されて歩み始めるのです。

  12章から読むとコリントの教会には結構人数がいたようです。12章の8節を読むと、 前のところになりますが、「ある人には〝霊〟によって知恵の言葉、ある人には同じ〝霊〟によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ〝霊〟によって信仰、ある人にはこの唯一の〝霊〟によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています」とあるように多くの人々に賜物が与えられているのです。数えてみると9つの働きが行われています。皆信徒が同じ霊、イエスさまの霊によって種々な働きをし ている。10節に異言を語る力、異言を解釈する力とありますが、異言とは何でしょうか。異なった言葉です。初代教会に異言を語る人がいたのです。14 章を見ると、「異言と預言」 と見出しが出てまいります。14 章の 2 節に「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています」とパウロは言っています。聞いてみたいものです。初代教会の礼拝は今のように式順が決まっているのではなく、賛美したい人は自由に賛美し、祈りたい人は空いた時間に祈り、預言したい人はこの場合の預言は今で言う説教と同じだと思いますが、預言し聞いている人は感極まって恍惚状態になり話し出すのです。周りで聞いている人は何を言っているのかわからないので、近い人が解釈してわかりやすいように話すのではないでしょうか。ですからパウロは、異言を語る者は自分を造り上げるけれども、自分を満足させるけれども預言する者は教会を造り上げると言います。そして、また賛美があり祈りがあり聖餐のパン裂きがあり祈りで礼拝が終わるのです。そして、それぞれ家に帰ったでし ょう。そのような礼拝をしていたのだと思われます。

  教会は一つの体に譬えられます。パウロは人間の体を例にしてわかりやすく教えます。例 えばお腹がすいた時、足を使って食べ物を取りに行き、手を使ってそれを口に入れ歯を使って咀嚼し喉から胃に運ばれます。胃は何もしないかのようですが食べ物を溶かして腸に運びます。腸は栄養を吸収し血液はからだのすみずみに栄養を送ります。どの部分も大事な役目をしているのです。目は重要な役目をしているけれど、さりとて手は要らない足は要らな いとは言えず、手足がなければいくら良く見える目が有っても困るのです。つまりはキリス トの体、教会も同じであり、22節にあるように「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」と言います。コリントの教会には様々な人がいま した。ユダヤ教から改宗したクリスチャン、地元に住んでいた人が教会に行き初めてクリス チャンになった人、或いは奴隷の人たちも教会に行ってクリスチャンになった人もいるで しょう。ユダヤ人はパウロと同じ民族なので心強く旧約聖書も知っているので見栄えする人たちだと思う。けれど、奴隷や異邦人クリスチャンはどうしても見劣りするでしょう。24節「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」と言います。もしかして見劣りのする部分は奴隷かも知れません。奴隷は貧しく着ている衣服も粗末であったでしょう。でもパウロは、神はそのような者をいっそう引き立たせて体を組み立てられた、と言います。一見役に立たない人が大事な役目をするのです。映画では皆主役だったら成り立たないでしょう。教会の礼拝もお当番だけで誰もおられなかったらがっかり します。一緒に礼拝してくれる人たちがいて共に礼拝を献げて嬉しいのです。奴隷がいい働 きをする場合もあります。例えば年代的に少し後のことになるのですが、オネシモという奴 隷がいました。主人から逃げ出した逃亡奴隷です。このオネシモはパウロにとって初めは役に立たない人でしたが、後になってパウロの助手になっていい働きをした人です。神はこのような人を用いられて、キリストの教会を組み立てられました。さきほど目や鼻の話ですが、秋田の民話に似た話があるそうです。目と鼻と口がそれぞれ一番偉いのは自分だと言い張っていたのです。眉毛は何の役目もしていないのに、一番上にあるのはけしからん、と言い 争いをしたのです。この民話は世の中の現実をとらえながら、みんな役割があって、みんなのお陰があって世の中成り立っていることを教えています。パウロの話には眉毛は出てき ませんが、「神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」と言っています。いたわることの大切さを教えています。

 26節「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」とパウロは言いますが社会もこうなったらどんなに住みよい社会になったでしょう。この間恐ろしい話を聞いてぞっとしました。子育て中のお母さん方の集まりで、それはママ友と呼ばれているそうですが、子供を中心として親同士でラインを交換して会話するのです。でもママ友の中でいじめがあって、ある親がいじめにあうそうです。ママ友の中に階級があり、暗黙の中にボスが決められていく。そのボスに気に入られないと仲間外れにされ輪に入れない。そうするとその子供も仲間外れになって皆から遊んでもらえない。そういう陰湿ないじめがあり、ボスは夫がいい会社に入っているとか、子供の成績が優勝だとか、どのような家に入っているかで決められるそうです。恐ろしい世の中だと思いました。教会はそのようなことはないのです。前の教会でも、ある長老さんは中学校の校長でしたが、えばることなく、謙虚で静かで人と対等に話してくださる人でした。 もう亡くなられましたが懐かしく思い出します。神の前では皆平等であり、罪人だという認識ですね。教会の中では、共に苦しむ、共に喜ぶことが出来ればどんなにいいでしょう。でも私たちには祈りがあります。お互い祈ることによって共有されるのではないでしょうか。

 28節に入ります。「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました」と言っていますが、ここにパウロの選びという信仰があります。この選びはこの世の選びとは相反するものなのです。この世の選びは優秀な者、優れた人、難関を突破した人という響きがありますが、聖書で言う選びとはだいぶ違いますね。神はイスラエルという弱い民族を宝の民とさ れ預言者を送って育てようとされました。イスラエルからどうぞ私を選んでくださいと言ったわけではなく、神の方から弱いイスラエルを選んでご自分の民とされたのです。選びはその人に資格があるのではなく、神の一方的なものなのです。神は第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語るものなどを選ばれたのですが、皆一つの霊から出ていると言います。 それは主イエスの霊です。皆一つの体となるために洗礼・バプテスマを受け、皆一つの霊を飲ませていただきました。そうなのです。皆一つの霊を飲ませていただいた分身なのです。 これはどこの教会に行ってもいえることです。23日に風間先生の御葬儀に行った時、葬儀が終わって他の教会の人たちとお話しました。しばらくぶりでお会いして懐かしく歓談しました。このようなことが皆一つの霊を飲ませていただいたからなのだと思います。他の霊だったらこのようにいくでしょうか。そしてもう一つ感じたのは雰囲気が明るかったです。悲壮感や暗さはなかったと思う。皆明るくしていたと思います。死が忌み嫌われるものでは無く、キリストの十字架と復活によって克服され死を乗り越えたからではないでしょうか。 そこがキリスト教の素晴らしいところだと思います。このようにあります。「死は勝利にのみ込まれた、死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(コリ一 15:55)とパウロは言っているのです。ここにキリスト教の特異性がありますね。

 私はなぜ牧師として立てられたのだろうかと不思議に思います。最初はとても負担でし た。苦痛でした。「どうしてですか」と聞いても何も応答がありません。神の召しと自覚したのは、ずっと後の事でした。譬で言うと、車を運転していて、知らない場所をナビで検索すると、どういう訳か、高速道路へ行こう行こうとします。高速に入りたくないからわざと 違う方向に車を走らせます。それとよく似ていて、神は牧師へ牧師へと誘導するのです。今ははっきりと召されたのだと思います。神の一方的な恵みです。いやだったらやめればいいのにと思うけれど、それが途中やめられないのです。そうやってずっと来ました。そしても う先が見えてきました。テープを目指して最後の頑張りをしたいと思います。

  お互い教会の一つの体を目指してこれからも共に歩みましょう。


次週の礼拝


2023年2月5日(日)午前10:30~11:30

 聖 書   コリントの信徒への手紙 一 13章1~13節
 説 教  愛がなければ
 説教者  佐々木佐余子 牧師
 讃美歌  24番、226番( , )、483番( , )、29番

日本キリスト教団
七里教会

牧師 佐々木佐余子

 〒337-0016
 埼玉県さいたま市
  見沼区東門前295-13
 TEL 048-685-3701
 FAX 048-685-3701

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