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「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編1編3節)

「幸いな人生」とは神と共に歩むことです。
詩編1編3節は、私たちのいのちは神と共に歩むことにあると教えています。
「流れのほとりに植えられ」豊かな実りを約束されている木のように、神と共に歩む者は「すべて、繁栄をもたらす」と教えています。
何故でしょう?何故なら「その人は流れのほとりに植えられた木」すなわち、その人の歩みは常に神の恵みの中にあるからです。どうぞ七里教会にお出でください。


           
 2018年5月27日(日)午前10:30~11:45
聖 書  マルコによる福音書14章1~9節
説 教 ナルドの香油の注ぎ」
説教者  小林則義 牧師 
讃美歌  27 507 567 405 65-1 28 

説教導入
「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。」(14章1節)

「過越祭」とはユダヤの3大祭りの一つです。ユダヤの3大祭りをご存じでしょうか?過越の祭り、刈り入れの祭り(7週の祭り)、仮庵の祭り、これがユダヤの3大祭りです。

「過越祭」の時、都は大混雑しました。エルサレムはユダヤの各地からだけではなく、世界の各地から人々が集まりました。その数、何と200万という人出があったそうです。ものすごい人出です。

「過越祭」とは、エジプトで奴隷の生活をしていた時、子羊の血を家の門柱とかもいに塗ることによって、主のさばきが通り過ぎたことにちなんでいます。この出来事を覚えるため、過越のいけにえを献げ、過越の食事を食べました。「除酵祭」とは「過越祭」の後7日間酵母を入れないパン、つまりイースト菌を入れないパンを食べる祭りです。これは出エジプトの時、あわただしく酵母を入れる間もなくパンを焼いたことにちなんでいます。この期間はおせんべいのようなパンを食べていた訳です。

 今日の聖書箇所は、そのようなお祭の「二日前」の出来事です。



「温泉に癒しを思う」2018年5月のメッセージ
 いつもよく行く日帰り温泉「Iの湯」、新緑の木々に囲まれた露天風呂に浸る。きらきら光る木洩れ日を浴びて、湯けむりの中にいる。時々心地よい風もあって気分は爽快だ。温泉に浸っていると「癒し」を感じる。「癒し」とはこのようなものだろうかと思う。心と体がゆったりと休まる。とくに大きな仕事を終えて入る温泉は格別だ。何ともいえない安らぎを感じる。これは本当の「癒し」というものだろうか。

 温泉に入ってくる人々を眺める。さすが今は肥満体形の人は少ない。この人たちはどのような人たちなのだろうか。人は裸になると身分、地位、学歴は分からない。どのような生活をしているのかも分からない。善い人か悪い人かも分からない。神のみが全てを知っておられる。人が神のみ前に出るときもこのように裸にならなければならない。
 しかし、みんなこの温泉の「癒し」を受けている。気持ちよさそうにリラックスしている。中には目をつむり渋い顔をして温泉に浸り、「癒し」を受けている人もいる。

 現代は多くの人が「癒し」を求めている。癒し系の男子、癒し系女子、癒し系の音楽やグッズ、癒しのプログラム、様々な癒しが世にあふれている。教会にも「癒しのミニストリー」なるものが次々に現れている。神の与えてくださる「癒し」とは何だろうか。聖書に書いてある「癒し」と「救い」は同義語だ。同じギリシャ語「ソーゾー」は「救い」であり「癒し」なのだ。聖書のいう「癒し」とは「魂の救い」なのだ。
旧約聖書のヨブ記に登場するヨブは神の前に正しい人であった。しかしある時、ヨブに災難が襲いかかった。彼は全財産を失い、家族を失い、自分の健康をも失った。「癒し」を求め、何故このような災難に遭わなければならないのか、不条理な災難を神に訴え続けた。ヨブが本当に「癒された」のは全知全能の神、創造主なる神に出会った時であった。その真理に圧倒されたヨブは、ただ神を見上げるのだった。

 心や体に傷を負っている人は「癒し」を求めている。「癒し」を神に祈り求めることは必要なことだ。その傷や疲れについて心を込めて話を聴き、一緒に「癒し」を祈り求めることは必要なことだ。
ただ本当の「癒し」は神ご自身と出会うことなのだ。聖書のいう究極の癒しとは神との正しい関係の回復にある。神から人生の意味と価値を教えられ、本当の生きる喜び「生きがい」を持つときにその人は本当に癒されるのだ。その人はどこから来てどこに行くのか知っている。

 日帰り温泉の「癒し」を受けつつ、本当の「癒し」を瞑想できる恵みを感謝したい。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
                                (マタイによる福音書11章28節)



「ここに愛がある その2」2018年4月のメッセージ
 私は5年間、群馬の教会で、単身赴任の生活をしてきました。ひとりで生活してきた訳です。ひとりでの生活は「あ~解放された!」と初めは気楽でよかったのですが、やはり長い目で見ると大変です。何でもかんでもひとりでやらなければなりません。うっかり病気にもなれません。私は5年間、教会の礼拝と祈祷会を休まなかったのは奇跡だと思っています。そして最も大きな戦いは孤独との戦いでした。夜ひとりで仕事をする。日中もひとりで仕事をする。それは何とも言えない霊的な戦いです。

 ですから、息抜きのためにも2か月に1度は東京の家に帰るようにしていました。家に帰ると駐車場まで妻と息子が出迎えてくれました。妻は「ご苦労様でした」と言ってくれます。息子は「お父さんお帰りなさい」と言って荷物を持ってくれます。しかし、何故か娘は出迎えてくれたことがありませんでした。娘はたぶん出迎えるのが恥ずかしかったのでしょう。そして、私が家に入ると、娘は「パパ~おかえり」と言います。私はこの一瞬に癒されたのです。

 誰もが愛を求めています。人は愛がなければ生きていけません。誰かを愛し、誰かに愛されなければ生きていけないのです。人はひとりでは生きていけないのです。

 しかし、この世の中に、本当の愛はあるのでしょうか。私たちに、本当の愛はあるのでしょか。本当の愛、真実の愛、いつまでも続く愛、決して裏切らない愛はあるのでしょうか。
どんなに美しく愛し合っていても人間の愛には限界があると言われています。それは罪をもつ人間の限界です。

 人が、何故美しい花を愛するかというと2つの理由があると言われています。①この花に、美しいという「価値」があるからです。②この花が、自分を「満足」させてくれるからです。「価値」があって「満足」させてくれる、これはエロースの愛と言われています。エロースの愛は人間の愛です。価値がなくても、醜くても、自分を満足させなくても、たとえ自分に敵対しても愛する愛、これはアガペーの愛と言われています。エロースの愛は人間の愛ですが、アガペーの愛はそれを超えた愛、何の条件も求めない愛、無条件の愛、これは神の愛です。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
(ヨハネの手紙Ⅰ4章10節)

 聖書は「ここに愛がある」と言っています。十字架上に愛があると言っています。神はイエス・キリストを十字架につけてくださいました。私たちの罪のために十字架につけてくださいました。頭にはいばらの冠をかぶせられ、手足には釘を打たれ、わき腹には槍を突き刺された。私たちに価値がなくても、醜くても、自己中心でも、神と人に敵対さえしても、神はこんな私たちをも愛してくださいました。神はイエス・キリストを十字架につけてくださいました。それは、私たちの罪を赦し愛するためだったのです。



「ここに愛がある」2018年3月のメッセージ
 「私は今、天国にいるようです」「私には子どもが4人います」「教会が小さいから子どもの数で勝負しています」「3人は女の子で、一番下が男の子です」「夕食のときには、みんなで一緒に食卓を囲みます。すでに結婚している娘は夫を連れて来ます」そして「私の妻の作る手料理をみんなで、ああでもない、こうでもない、と言いながらいただくのです」「たいがい娘は母親の味方をして、父親である私はいつもけちょんけちょんに言われっぱなしです」「しかし、私は、子どもたちに囲まれ、愛する妻がいて、とにかく私の今は天国です」「現実に今、こんなに幸せな生活を送っています」「天国があるとかないとか疑う余地がないのです」

 こう言ったのは誰かというと、私の恩師M牧師です。おいしいご馳走が並んでいて、家族が仲良かったら、どんなに幸せでしょうか。まさに天国かもしれません。ご馳走がなくても、家族が仲良く、平和であったら、それでも天国でしょう。旧約聖書の箴言には素晴らしいことばがあります。
「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」(箴言17章1節、新改訳聖書)

 もし、食卓を囲みながら、言い争いがあればどうでしょうか。また一言も会話がなく、冷たい風が吹き抜けるようでしたらどうでしょうか。もし、そうであるなら、いくらご馳走があっても全然おいしくありません。私たちの心に平安はありません。父と母が、夫と妻が、仲が良いということはとても大切なことです。もし、そうでなかったなら、部屋の数だけ孤独があると言われています。もし、けんかをしても、家族を赦せなかったら、家族を愛せなかったら、それは切ないことです。悲しいことです。

 私たちの世界において、人間の世界において、一番大切なものは何でしょうか?それは何と言っても愛でしょう。そして、それは基本的には夫婦の愛だと私は思います。

 イスラエルのソロモンという王は言いました。「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」(箴言19章22節、新改訳聖書)ソロモン王は今から三千年前の人物ですが、人が必要としているものは、今も昔も変わりません。

 誰もが愛を求めています。人は愛がなければ生きていけません。愛されて、また愛さなければ生きていけない存在なのです。私の恩師、M牧師は「一日一回は『アイラブユー』と言いなさい」と言われました。「嘘でもいいから言いなさい」と言われました。それは、夫を、妻を、ハッピーにし、勇気付け、お互いのセルフ・エスティーム(自尊心という意味です。自分を尊重する、大事にするという意味です。それがあると自分を価値のある人間と思います)を高めるそうです。そしてセルフ・エスティームの高い人ほど人生に成功すると言っています。「あなた愛しているわ」なんて言われると「妻を泣かすわけにはいかない」「やるぞー」と思う訳です。

 しかし、この世の中に本当の愛はあるのでしょうか?本当の愛、真実の愛、いつまでも続く愛、決して裏切らない愛はあるのでしょうか?聖書は「ここに愛がある」(ヨハネの手紙Ⅰ4章10節)と言っています。十字架上に愛があると言っています。神はイエス・キリストを私たちの罪のために十字架につけてくださいました。私たちに価値がなくても、醜くても、自己中心であっても、神はこんな私たちを赦し、愛してくださっているのです。



「年賀状大賞・手紙大賞」2018年2月のメッセージ
 みなさんは年賀状のやり取りをされているでしょうか。私は中学生の時から、今に至るまで、年賀状のやり取りをしています。その中には高校を卒業以来一度も会っていない友もいます。ですから年賀状は音信を確認する唯一の手段でもあります。ある年、親しくさせていただいた方から年賀状が届きませんでした。案じていましたら、後日奥様から天に召されたとのお知らせを受けたこともありました。

 年賀状はいろいろなものがあります。中には印刷だけのものもあります。そんな年賀状は何か味気なく儀礼的な感じがします。でもそこに一筆なにか近況のようなものが書いてあると、それは「暖かい年賀状」になります。近況とともに「いつか会いたいですね」「また会いたいですね」なんて書いてあると「嬉しい年賀状」になります。何か励まされた思いになります。

 私は毎年、今年一番の年賀状というのを選んでいます。今年一番私の心を輝かせた一枚、私の心を震わせた一枚ということです。今年の「年賀状大賞」は大学で教えられているクリスチャンの先生のものです。年賀の挨拶に続いて「古希すぎし、メッキもはげて、生きやすし」とありました。思わず笑ってしまいました。この年賀状はユーモアと癒しに満ちていました。先生は古希を過ぎても、なお請われ大学で教えておられます。先生はさぞ楽しい一年をはじめられたことと思いました。クリスチャンは、やっぱり、主にあって、ありのままが一番生きやすいのでしょう。私もとうにメッキははげているのですが、髪の毛の方はまだ健在です。

 ちなみに昨年の「年賀状大賞」は98歳の田舎の長老からのものでした。98歳は私がいただいた年賀状の中では最高齢です。この信仰の先輩は昨年天に召されました。「こたつに当たり遠くの山を眺めています。友よ!また会う日まで!シャローム!」短い文ですが、大きな字で、行間を開け、力強く書いてあります。私のことを友と呼んでくださり、その愛と気迫が伝わってきました。今天国での再会を待っていてくださるのです。感謝なことです!

 ここで、聖書に登場するパウロのことを思い出しました。パウロは目を患っていました。患った目を「かっ」と見開いて、愛を込めて、聖書の中の手紙といわれる結びの部分を書きました。彼はガラテヤの信徒への手紙の結びの部分をこう書いています。
「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」(ガラテヤの信徒への手紙6章11節)

 パウロは目を患っていたので、パウロが書いた聖書の中の手紙はほとんどが代筆でした。彼が語り、そばにいた弟子がペンを走らせました。ガラテヤの信徒への手紙の最後の部分は、単なる挨拶ではなく全体のまとめであるとも言われています。パウロは、手紙の最後の部分は自らが筆をとり、子どものように大きな字で、不自由していた目を大きく見開き、これを書きました。ここに、パウロの愛とこの手紙にかける気迫が伝わってきます。聖書におけるパウロの手紙こそ、まさに「手紙大賞」でしょう!

 あなたも「手紙大賞」であるこの愛の手紙を読んでみませんか!

                           (この文章は「トラクト」からの転載です)



「箱根駅伝から」2018年1月のメッセージ
 
お正月の楽しみは何と言ってもテレビでのスポーツ観戦です。サッカー、ラクビー、駅伝などどれも見たいものばかりです。最近の箱根駅伝はとくに面白いです。スピード駅伝と言われ、今までと速さが違います。それだけに調整がうまくいかなかったり、体調が悪かったりすると惨めな結果になってしまいます。
 何年か前、ある大学の有名選手が花の2区で疲労骨折を起こしリタイヤしてしまいました。本人もチームも、さぞ無念だったろうと思います。しかしうまく走れようが、走れまいが、選手たちの一生懸命さ、純粋さ、若々しさが箱根駅伝からは伝わってきます。箱根駅伝は、スポーツの持つすがすがしさと熱さが伝わってきて何とも言えない感動物語です。

 それにしても、スポーツで勝つためには、日々のトレーニングが大切です。ぜい肉を落とし、筋力をつけ、走り込み、体のキレをよくします。それだけではなく食事を含めすべての面で節制します。そして最終的にやることは、勝つためのイメージ・トレーニングです。選手の頭の中にはコースのすべてが入っています。どこが平坦で、どこが上りで、どこが下りか、コースは広いか狭いか、カーブはどこかなど全部頭に入っています。そして自分のスタミナ、スピードを考えどこをどう走るか考えておきます。どこまで巡航速度で行き、どこでスパートをかけるか、基本計画は頭に入れておきます。あとは本番での相手との駆け引き、相手が苦しそうだったら上り坂でもスパートをかける。団子状態なら最後の競技場のトラック二百メートルでスパートをかける。
 もし、本人の会心の走りが出来たならば、天にも昇るような思いでしょう。しかし敗れても出すものを全部出し尽くしたのなら、それはそれで深い満足感が与えられるはずです。

 私たちクリスチャンも体を鍛えることが大切です。良い働きをするためには体のキレが大切です。シャープでなければなりません。もちろん信仰の訓練も大切です。祈れること。いつでも、どこでも、祈れること。緊急事態でも瞬時に祈れることが大切です。聖書のみことばを毎日食べることです。みことばを味わい、瞑想し、口ずさみ、暗記する。必要なみことばがいつでも口から出て来ることです。そして感謝をすること。どんな時でも感謝が出来ることは大切なことです。感謝出来るためには喜びを見つける訓練が有効です。貧しい牧師家庭では、子どもたちに喜びを見つける競争をさせることがあると聞きました。素晴らしい訓練です。
 私たちもよい働きのための信仰のレースを走るのです。そしてゴールした時は、かつて活躍したビスマルク選手やジョルジーニョ選手のように大きな身振りで、神をたたえ、神に栄光をお返ししようではありませんか。私たちにも感動物語があるのです。

「わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。」(Ⅱテモテ書2章1節、新共同訳)
「・・・あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。・・・私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。」(Ⅰコリント書9章24節、26節、新改訳)



日本キリスト教団
七里教会

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