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「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編1編3節)

「幸いな人生」とは神と共に歩むことです。
詩編1編3節は、私たちのいのちは神と共に歩むことにあると教えています。
「流れのほとりに植えられ」豊かな実りを約束されている木のように、神と共に歩む者は「すべて、繁栄をもたらす」と教えています。
何故でしょう?何故なら「その人は流れのほとりに植えられた木」すなわち、その人の歩みは常に神の恵みの中にあるからです。どうぞ七里教会にお出でください。


           
 2018年4月22日(日)午前10:30~11:45
聖 書  マルコによる福音書13章14~23節
説 教 大きな苦難」
説教者  小林則義 牧師 
讃美歌  27 358 461 510 65-1 28 

説教導入
 「終わりの日」の「徴」の5つ目は「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」ことです。「憎むべき破壊者」とは誰のことでしょうか?ユダヤ人が嫌う人は神を知らない異邦人です。「憎むべき破壊者」とは異邦人は異邦人でも、破壊を繰り返し、荒廃をもたらす侵略者のことでしょうか?

 同じ表現は旧約聖書のダニエル書にも書かれています。ダニエル書を読みますと「憎むべき破壊者」は偶像であることが分かります。「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」つまり偶像が「立ってはならない所に立つ」それは神殿です。

 主イエスはエルサレム神殿に偶像が建てられる時のことを言われたのでしょう。つまり、異邦人である破壊者、侵略者によってエルサレム神殿が破壊され、そこに偶像が置かれ、偶像礼拝が行われるようになる時のことを言われたのでしょう。

 実際、主イエスがこのことを語られてから、40年後、紀元70年、エルサレム神殿はローマ帝国ティトスによって破壊されます。そして偶像礼拝が行われることになります。ヨセフスの「ユダヤ戦記」を読みますと、ローマ皇帝ティトスは、エルサレム神殿を徹底的に破壊したと記しています。その時ユダヤにいたクリスチャンたちはこの預言を信じエルサレムを脱出し山に逃れたのです。戦った多くの民衆は虐殺されたと記しています。ヨセフスの表現を借りると、エルサレムは十字架が林のように、無数の十字架が林立し、うめき声に満ちていたと言われます。



七里教会「賛美礼拝&春のチャペルコンサート」のご案内
七里教会はペンテコステの日に賛美礼拝とそれに続くチャペルコンサートを企画しました。「アリア」「スターバトマーテル」の独唱、また童謡、讃美歌、聖歌をチェロ、ピアノ、クラリネットで楽しみます。
日 時    2018年5月20日(日)10:30~13:00
会 場    日本キリスト教団 七里教会 礼拝堂
出演者
      独唱 馬場津也子 チェロ 吉澤いづみ ピアノ 野嶋さやか クラリネット 原田哲
メッセージ  小林則義 牧師

    駐車場は近くの七里郵便局、クラウン工業の駐車場をお借りしています。



「ここに愛がある その2」2018年4月のメッセージ
 私は5年間、群馬の教会で、単身赴任の生活をしてきました。ひとりで生活してきた訳です。ひとりでの生活は「あ~解放された!」と初めは気楽でよかったのですが、やはり長い目で見ると大変です。何でもかんでもひとりでやらなければなりません。うっかり病気にもなれません。私は5年間、教会の礼拝と祈祷会を休まなかったのは奇跡だと思っています。そして最も大きな戦いは孤独との戦いでした。夜ひとりで仕事をする。日中もひとりで仕事をする。それは何とも言えない霊的な戦いです。

 ですから、息抜きのためにも2か月に1度は東京の家に帰るようにしていました。家に帰ると駐車場まで妻と息子が出迎えてくれました。妻は「ご苦労様でした」と言ってくれます。息子は「お父さんお帰りなさい」と言って荷物を持ってくれます。しかし、何故か娘は出迎えてくれたことがありませんでした。娘はたぶん出迎えるのが恥ずかしかったのでしょう。そして、私が家に入ると、娘は「パパ~おかえり」と言います。私はこの一瞬に癒されたのです。

 誰もが愛を求めています。人は愛がなければ生きていけません。誰かを愛し、誰かに愛されなければ生きていけないのです。人はひとりでは生きていけないのです。

 しかし、この世の中に、本当の愛はあるのでしょうか。私たちに、本当の愛はあるのでしょか。本当の愛、真実の愛、いつまでも続く愛、決して裏切らない愛はあるのでしょうか。
どんなに美しく愛し合っていても人間の愛には限界があると言われています。それは罪をもつ人間の限界です。

 人が、何故美しい花を愛するかというと2つの理由があると言われています。①この花に、美しいという「価値」があるからです。②この花が、自分を「満足」させてくれるからです。「価値」があって「満足」させてくれる、これはエロースの愛と言われています。エロースの愛は人間の愛です。価値がなくても、醜くても、自分を満足させなくても、たとえ自分に敵対しても愛する愛、これはアガペーの愛と言われています。エロースの愛は人間の愛ですが、アガペーの愛はそれを超えた愛、何の条件も求めない愛、無条件の愛、これは神の愛です。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
(ヨハネの手紙Ⅰ4章10節)

 聖書は「ここに愛がある」と言っています。十字架上に愛があると言っています。神はイエス・キリストを十字架につけてくださいました。私たちの罪のために十字架につけてくださいました。頭にはいばらの冠をかぶせられ、手足には釘を打たれ、わき腹には槍を突き刺された。私たちに価値がなくても、醜くても、自己中心でも、神と人に敵対さえしても、神はこんな私たちをも愛してくださいました。神はイエス・キリストを十字架につけてくださいました。それは、私たちの罪を赦し愛するためだったのです。



「ここに愛がある」2018年3月のメッセージ
 「私は今、天国にいるようです」「私には子どもが4人います」「教会が小さいから子どもの数で勝負しています」「3人は女の子で、一番下が男の子です」「夕食のときには、みんなで一緒に食卓を囲みます。すでに結婚している娘は夫を連れて来ます」そして「私の妻の作る手料理をみんなで、ああでもない、こうでもない、と言いながらいただくのです」「たいがい娘は母親の味方をして、父親である私はいつもけちょんけちょんに言われっぱなしです」「しかし、私は、子どもたちに囲まれ、愛する妻がいて、とにかく私の今は天国です」「現実に今、こんなに幸せな生活を送っています」「天国があるとかないとか疑う余地がないのです」

 こう言ったのは誰かというと、私の恩師M牧師です。おいしいご馳走が並んでいて、家族が仲良かったら、どんなに幸せでしょうか。まさに天国かもしれません。ご馳走がなくても、家族が仲良く、平和であったら、それでも天国でしょう。旧約聖書の箴言には素晴らしいことばがあります。
「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」(箴言17章1節、新改訳聖書)

 もし、食卓を囲みながら、言い争いがあればどうでしょうか。また一言も会話がなく、冷たい風が吹き抜けるようでしたらどうでしょうか。もし、そうであるなら、いくらご馳走があっても全然おいしくありません。私たちの心に平安はありません。父と母が、夫と妻が、仲が良いということはとても大切なことです。もし、そうでなかったなら、部屋の数だけ孤独があると言われています。もし、けんかをしても、家族を赦せなかったら、家族を愛せなかったら、それは切ないことです。悲しいことです。

 私たちの世界において、人間の世界において、一番大切なものは何でしょうか?それは何と言っても愛でしょう。そして、それは基本的には夫婦の愛だと私は思います。

 イスラエルのソロモンという王は言いました。「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」(箴言19章22節、新改訳聖書)ソロモン王は今から三千年前の人物ですが、人が必要としているものは、今も昔も変わりません。

 誰もが愛を求めています。人は愛がなければ生きていけません。愛されて、また愛さなければ生きていけない存在なのです。私の恩師、M牧師は「一日一回は『アイラブユー』と言いなさい」と言われました。「嘘でもいいから言いなさい」と言われました。それは、夫を、妻を、ハッピーにし、勇気付け、お互いのセルフ・エスティーム(自尊心という意味です。自分を尊重する、大事にするという意味です。それがあると自分を価値のある人間と思います)を高めるそうです。そしてセルフ・エスティームの高い人ほど人生に成功すると言っています。「あなた愛しているわ」なんて言われると「妻を泣かすわけにはいかない」「やるぞー」と思う訳です。

 しかし、この世の中に本当の愛はあるのでしょうか?本当の愛、真実の愛、いつまでも続く愛、決して裏切らない愛はあるのでしょうか?聖書は「ここに愛がある」(ヨハネの手紙Ⅰ4章10節)と言っています。十字架上に愛があると言っています。神はイエス・キリストを私たちの罪のために十字架につけてくださいました。私たちに価値がなくても、醜くても、自己中心であっても、神はこんな私たちを赦し、愛してくださっているのです。



「年賀状大賞・手紙大賞」2018年2月のメッセージ
 みなさんは年賀状のやり取りをされているでしょうか。私は中学生の時から、今に至るまで、年賀状のやり取りをしています。その中には高校を卒業以来一度も会っていない友もいます。ですから年賀状は音信を確認する唯一の手段でもあります。ある年、親しくさせていただいた方から年賀状が届きませんでした。案じていましたら、後日奥様から天に召されたとのお知らせを受けたこともありました。

 年賀状はいろいろなものがあります。中には印刷だけのものもあります。そんな年賀状は何か味気なく儀礼的な感じがします。でもそこに一筆なにか近況のようなものが書いてあると、それは「暖かい年賀状」になります。近況とともに「いつか会いたいですね」「また会いたいですね」なんて書いてあると「嬉しい年賀状」になります。何か励まされた思いになります。

 私は毎年、今年一番の年賀状というのを選んでいます。今年一番私の心を輝かせた一枚、私の心を震わせた一枚ということです。今年の「年賀状大賞」は大学で教えられているクリスチャンの先生のものです。年賀の挨拶に続いて「古希すぎし、メッキもはげて、生きやすし」とありました。思わず笑ってしまいました。この年賀状はユーモアと癒しに満ちていました。先生は古希を過ぎても、なお請われ大学で教えておられます。先生はさぞ楽しい一年をはじめられたことと思いました。クリスチャンは、やっぱり、主にあって、ありのままが一番生きやすいのでしょう。私もとうにメッキははげているのですが、髪の毛の方はまだ健在です。

 ちなみに昨年の「年賀状大賞」は98歳の田舎の長老からのものでした。98歳は私がいただいた年賀状の中では最高齢です。この信仰の先輩は昨年天に召されました。「こたつに当たり遠くの山を眺めています。友よ!また会う日まで!シャローム!」短い文ですが、大きな字で、行間を開け、力強く書いてあります。私のことを友と呼んでくださり、その愛と気迫が伝わってきました。今天国での再会を待っていてくださるのです。感謝なことです!

 ここで、聖書に登場するパウロのことを思い出しました。パウロは目を患っていました。患った目を「かっ」と見開いて、愛を込めて、聖書の中の手紙といわれる結びの部分を書きました。彼はガラテヤの信徒への手紙の結びの部分をこう書いています。
「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」(ガラテヤの信徒への手紙6章11節)

 パウロは目を患っていたので、パウロが書いた聖書の中の手紙はほとんどが代筆でした。彼が語り、そばにいた弟子がペンを走らせました。ガラテヤの信徒への手紙の最後の部分は、単なる挨拶ではなく全体のまとめであるとも言われています。パウロは、手紙の最後の部分は自らが筆をとり、子どものように大きな字で、不自由していた目を大きく見開き、これを書きました。ここに、パウロの愛とこの手紙にかける気迫が伝わってきます。聖書におけるパウロの手紙こそ、まさに「手紙大賞」でしょう!

 あなたも「手紙大賞」であるこの愛の手紙を読んでみませんか!

                           (この文章は「トラクト」からの転載です)



「箱根駅伝から」2018年1月のメッセージ
 
お正月の楽しみは何と言ってもテレビでのスポーツ観戦です。サッカー、ラクビー、駅伝などどれも見たいものばかりです。最近の箱根駅伝はとくに面白いです。スピード駅伝と言われ、今までと速さが違います。それだけに調整がうまくいかなかったり、体調が悪かったりすると惨めな結果になってしまいます。
 何年か前、ある大学の有名選手が花の2区で疲労骨折を起こしリタイヤしてしまいました。本人もチームも、さぞ無念だったろうと思います。しかしうまく走れようが、走れまいが、選手たちの一生懸命さ、純粋さ、若々しさが箱根駅伝からは伝わってきます。箱根駅伝は、スポーツの持つすがすがしさと熱さが伝わってきて何とも言えない感動物語です。

 それにしても、スポーツで勝つためには、日々のトレーニングが大切です。ぜい肉を落とし、筋力をつけ、走り込み、体のキレをよくします。それだけではなく食事を含めすべての面で節制します。そして最終的にやることは、勝つためのイメージ・トレーニングです。選手の頭の中にはコースのすべてが入っています。どこが平坦で、どこが上りで、どこが下りか、コースは広いか狭いか、カーブはどこかなど全部頭に入っています。そして自分のスタミナ、スピードを考えどこをどう走るか考えておきます。どこまで巡航速度で行き、どこでスパートをかけるか、基本計画は頭に入れておきます。あとは本番での相手との駆け引き、相手が苦しそうだったら上り坂でもスパートをかける。団子状態なら最後の競技場のトラック二百メートルでスパートをかける。
 もし、本人の会心の走りが出来たならば、天にも昇るような思いでしょう。しかし敗れても出すものを全部出し尽くしたのなら、それはそれで深い満足感が与えられるはずです。

 私たちクリスチャンも体を鍛えることが大切です。良い働きをするためには体のキレが大切です。シャープでなければなりません。もちろん信仰の訓練も大切です。祈れること。いつでも、どこでも、祈れること。緊急事態でも瞬時に祈れることが大切です。聖書のみことばを毎日食べることです。みことばを味わい、瞑想し、口ずさみ、暗記する。必要なみことばがいつでも口から出て来ることです。そして感謝をすること。どんな時でも感謝が出来ることは大切なことです。感謝出来るためには喜びを見つける訓練が有効です。貧しい牧師家庭では、子どもたちに喜びを見つける競争をさせることがあると聞きました。素晴らしい訓練です。
 私たちもよい働きのための信仰のレースを走るのです。そしてゴールした時は、かつて活躍したビスマルク選手やジョルジーニョ選手のように大きな身振りで、神をたたえ、神に栄光をお返ししようではありませんか。私たちにも感動物語があるのです。

「わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。」(Ⅱテモテ書2章1節、新共同訳)
「・・・あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。・・・私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。」(Ⅰコリント書9章24節、26節、新改訳)



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